ココロを整える

私がわたしに感動する人生を。

あなたが生きている。そこには必ず感動があります。息をする、動く、考える、感じる。自分の全てが愛おしく思える人生にしませんか?

宗教について思うこと

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新年早々コロナと共に過ごしています

ココロの調律アドバイザー

ゆーみんです

 

高熱がなかなか下がらず

当然体も頭もシンドイので

ずーっと寝ておりました

 

あんまり難しいことも考えられないし

これは日ごろゴタゴタと思考がちな私への

休めの合図か?などと思っていたら

大きな気づきがやって参りました

 

何だか堅っ苦しい語りですが

よろしければお読みください

 

 

 

私は
排他的な教義の宗教2世で
結婚後、活動は皆無だが
退会はせず
朝夕の祈りも続けていた

 

でもこれは
“やめたらバチが当たるかも”
という
恐れを払拭するための行為だった

 

しかしながら
この数日で急に
バカバカしくなってきた

 

人が幸せになるために
条件をつけて
信念や行動に制限を設ける


この数年で私が体得した事と
真逆ではないのか?


人は無条件で幸せになって良いし
本来ならば
何を思っても
どんな行動をしても
良いはずなのだ
(社会のルール云々は横に置いておいて)

 

では何故
聖人と言われる人たちは
わざわざ制限を設けるような
教えを解き
人々はその教えを崇拝し
流布していったのか

 

それは
制限があり
窮屈だからこそ
自由を求めて行動しようとするからではないか?と思い至った

 

自由でないからこそ

他人との
比較や競争が生まれ
行動の原動力になっていく

 

自由でないからこそ

不足感や罪悪感にさいなまれ

こんな自分のままでは

幸せになんてなれない

何かしなければいけない

という行動に走らせる

 

結局

宗教というのは
幸せになりたい
幸せになるためにはどうすればいいのか?
という基本的な欲求を
聖人たちが
各々のエゴ攻略方法を
捻り出して解いたものではないのか?

 

エゴは
何もしなくなってもらうと
困るのだ

 

きつい修行をしたり
欲を抑え込んだり
お金を払ったり
仏像を拝んだり

 

そうしなければ
幸せにならないと
思い込んだ人々は
まんまとエゴ対策にのめり込む

 

本当は
志しだけで良いのだ

 

私は幸せになる
今この瞬間

無条件で幸せになる


だから毎瞬間
その時もっとも幸せになれる
意識を選択する

 

それだけでいいのだ

 

幸せになるための許可は
お賽銭の額や
神仏に祈りを捧げた回数や
感謝した回数にも関係ない

 

修行も瞑想も
メソッドも
何もしなくてもいいのだ

 

何もしなくても
ただ幸せになって良い

それだけでいいのだ

 

私が幸せになること

私が自分は幸せだと思うこと

 

幸せになるための教えを守ることが宗教ならば

これが私の宗教活動だとしよう

 

 

 

それでは今日はこの辺で

ココロの調律アドバイザー

ゆーみんでした